これは私たち家族の個人的な過去の悲しい話です。
ご興味のない方にはつまらない話なのでお読みにならないで下さい。
生きていれば、今年22歳。14年前に小学2年生で亡くなった私達の長女、紘子。
長女らしく、優しい性格で勉強、ピアノ、習字、何でも頑張る性格でした。
初子だったので私達は大変可愛がり、休日ごとに旅行や公園へつれて行きました。
目が大きく、その頃人気のキョンシー映画の子役テンテンに良く似た本当に可愛い顔をしていた子でした。
こんな子に限って神は早く思し召しになる。
平成2年の夏、その長女の病気が見つかったときはすでに手遅れでした。
8月に入院していた新潟市内の大学病院から、秋になって延命治療の為に他の大学病院に転院し、そのときの先生の診断では余命はあと1、2ヶ月。
1日でも長く、何とか正月までは生きていて欲しい。
外で泣いても娘の前では笑顔でいなければならない、本当に苦しくて切ない日々でした。
12月に入り、ついに食事もできなくなり、点滴で栄養を取る日々が続きました。
妻は毎日病室で寝泊りし、付っきりで看病。
週末に私が病室に帰るのを娘は大変楽しみにしていて、ゲームの相手や漫画を読んでやったり、持って行った土産を袋からわざと小出しに見せたりして一生懸命楽しませてやりました。
残り少ない日々、少しでも楽しい日々を過ごさせたいと、病院の先生も多忙の中、暇を見てはオセロの相手をしてくれました。
12月の中頃、悪くなり始めた容態が驚くほどに好転してきました。
病院恒例のクリスマスイブの音楽会が21日の夜にあることを看護婦さんから聞たからだったと思います。
辛く寂しい入院生活、娘はその日が来るのを本当に楽しみにしていたようです。
当日の夜、ナースステーションの前に集まった車椅子の患者さん達とその家族。
電気が消され、灯されたキャンドルに浮かぶ優しい看護婦さんたちの顔。
良く見ればサンタはいつもの教授。
少しでも闘病生活を楽しく、と病院からの温かいプレゼントでした。
キーボードの演奏ではじまった、あまりにも悲しく聞こえた賛美歌。
これがこの子の最後のクリスマス・・・そう思ったら涙が止めどなく溢れ、嗚咽を抑えるのに必死でした。
他の患者さんの家族も皆見られないように涙を拭っていました。
「サンタは教授だったね」これが娘と私の最後の会話でした。
翌日の早朝、娘は昨夜の思い出を最後に、8年間の短い人生を終えてしまいました。
利口な子でした。そして優しい子でした。
入院中に「病気になったのが妹でなくて良かった」と言ったので「どうして?」とたずねたら
「だって、こんなに痛い治療、妹だったら耐えられない。紘子で良かった」
本当に惜しくて仕方ありませんでした。
この子が生まれる前からスピーカーの開発をしていたのですが、インターネットもまだ無い時代、コンクリートのスピーカーが思うように売れない時代が続き、「中々売れないから、お父さんもう諦めようかなー」とまだ入院前の元気だった頃、ピアノの練習をしていた娘に力なく言ったら娘は手を止めて振り返り「紘子は絶対にあきらめない性格だよ」と言ったのを今でもはっきり覚えています。
この幼い娘に諭され、気を取り直して売れなくても諦めずに開発を続けました。
いまも生きててくれれば、センスの良い子だったのでデザインなどでもきっと相談に乗ってくれてたはずです。
私もいつか娘のところに行ったときのために、いっぱいの思い出をつくって土産にしたいと思っています。
「お父さんの作ったスピーカーがいっぱい売れたよ。皆、良い音だと喜んでくれたよ」「お母さんが怒らない程度に可愛い女の人をいっぱい好きになったよ」・・・はやっぱり内緒にしておこう。
後で来たお母さんに天国でも叱られるから・・・・
町にクリスマスの音楽が流れる頃、いつも思い出す娘のことを書かせていただきました。
亡き娘をただ自慢したくて。
場違いな暗い話ですみませんでした。皆様はどうか楽しいクリスマスをお過ごし下さい。
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